■Newton時代
ニュートンが「自然哲学の数学的原理」こと「プリンキピア」を発刊したのは1687年のことです。
ニュートンは微積分を編み出して、自然哲学から物理学を切り離したとされていますが、1600年代、微積分はまだ数学家の間でも研究の途中段階であって、とても一般の人たちが理解できるレベルのものではなかったと言います。
そういった背景があったからなのか、「プリンキピア」は微積分で記述されているわけではなく、幾何学的な説明によってしか記述されておらず、現代の人間からすると相当難解なものになっているようです。
ニュートンが「プリンキピア」を発刊した40年後の1727年、ついに物理学の化身は亡くなりました。こののち、大陸で発生した自然哲学を破壊した物理学は、再び大陸へと舞い戻り、研究舞台の中心はフランスに移ります。
■Euler時代
物理学の化身に続く時代にまず現れたのはオイラーでした。オイラーは幾何学的に記述された難解なニュートン力学を、新しい数学体系である解析学へと転化させました。
1736年に発刊された「力学もしくは解析学的に示された運動の化学」でオイラーは、ニュートンのような天才的な人間が、その天才的な発想力で問題解決を図ろうとするのであれば、与えらえた問題設定をわずかに変えてしまえば一般人にはもはや解決のすべがない、しかし解析学を用いれば機械的な手法に乗っかるだけで誰でも問題解決ができてしまうと指摘しています。
こうやって、力学と解析学は相互に影響を及ぼしながら互いに発展していきました。
解析学の発展の中で、オイラーが手掛けた大きな物理学の発展として、剛体の力学が挙げられます。「プリンキピア」では天体のように大きな物体であっても質点という概念を使えば高度に理想化された中で物体の運動の予知ができるとされていますが、あの「プリンキピア」をもってしても、大きさのある物体については触れられていないわけです。
単純な運動の例として、斜面上を転がる球状もしくは円筒状の物体ですら、慣性モーメントまで考慮すれば滑落に要する時間は変わってきますので、ニュートン力学は万能なようでいて、実は穴だらけでもあったんですね。
オイラーは、そのニュートンの穴をみごとにふさぎました。基本的に質点系しか考えることができなかったニュートン力学の適用範囲を、大きさのある物体にまでいっきに拡張して、最終的には1760年、「固体あるいは剛体の運動理論」にまとめました。
ここでオイラーは大きさのある物体の運動については、並進運動と回転運動に完全に分離して考えることが可能であることを示しました。並進運動に関してはニュートン力学を活用して質点系の運動として解ける、しかし回転運動は別段の法則が必要だ、としています。この法則こそがオイラーの運動方程式として現代に知られているものです。
\(Euler\) の運動方程式
\(\mathbb{N}=\displaystyle\frac{d\mathbb{L}}{dt}\)
\(\mathbb{N}\):トルク
\(\mathbb{L}\):角運動量
■Lagrange時代
さらに時代がくだり、オイラーの画期的な発展も色あせ始めたころ、次なる時代の物理学者、数学者は、力学をより発展的に変えていきました。ニュートンが編み出した幾何学的な力学を、オイラーが微積学によって見通しよく整頓しましが、オイラーをもってしても幾何学的な力学を100%全て解析学に置き換えたわけではなかったようです。幾分かは幾何的な考え方が残っていて、それすらも消し去ってしまおうというんですね。
現れたのはマクローリン、そして次いでラグランジュが現れて、とうとう力学は”微積学で説明ができる”学問から、”微積学そのものが物理学を表す”というところまで一体化されてしまいました。
もはやこうなってしまえば物理描像なんていうものは不要なわけです。直進に進むからデカルト座標が分かりやすいだろう、天体は円運動するから極座標で考えよう、といった幾何学的な考えも、数式的な場合分けも一切排除して、一般化座標を用いて完全に数学の産物としての物理学に変わってしまいました。微分学が解析学となった瞬間でした。
\(Lagrange\) の運動方程式
\(\displaystyle\frac{\partial L}{\partial q_i}-\frac{d}{dt}(\frac{\partial L}{\partial \dot{q_i}})=0\)
\(L\):ラグランジアン
\(q_i\):一般化座標
ラグランジュの運動方程式と、オイラーラグランジュの運動方程式は別のものですが、この記事を書くまで捉え違えていました。私がオイラーラグランジュ方程式だと思っていたものは、上で書いた単なるラグランジュの運動方程式だったようです。